三春城の歴史

三春城は、永正元(1504)年に戦国大名の田村義顕(たむらよしあき)が築いたと伝えられ、義顕が入城した朝、城の上空を鶴が舞ったので「舞鶴城」とも呼ばれるようになったと言われています。急峻な岩山の上に築かれた三春城は、容易には攻めがたい要害堅固な山城でした。

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三春城年表

戦国時代 田村氏
1504年(永正元年)
田村義顕が居城を三春に移し、大元帥明王や福聚寺も三春へ移ったと伝えられる。
このころ
山城国(京都)石清水から雁木田の八幡神社が、同国祇園から牛頭天王を荒町(八雲神社)へ勧請する。
1557年(弘治3年)
田村隆顕から福聚寺へ掟書が出され、1582年には清顕からも出される(「田村氏掟書」)
1559年(永禄2年)
田村清顕が、大元師明王へ大般若経600巻を奉納する。
1568年(永禄11年)
田村清顕の娘、愛姫が誕生する。
安土・桃山時代
1579年(天正7年)
愛姫が、伊達政宗に嫁ぐ。
1586年(天正14年)
田村清顕が死去する。
1587年(天正15年)
大町に紫雲寺が開かれる。
1588年(天正16年)
相馬義胤が三春入場に失敗した後、伊達政宗が入城し、田村宗顕を城主とする。
1590年(天正18年)
豊臣秀吉の奥羽仕置で田村氏は改易され、三春は伊達領となる。
会津領
1591年(天正19年)
九戸の乱等鎮圧後、蒲生氏郷の会津領に三春が編入される。
1598年(慶長3年)
蒲生氏郷嫡子秀行が宇都宮に遷り、上杉景勝が会津領主となる。
1601年(慶長6年)
前年の関ケ原により、蒲生秀行が会津に戻る。
江戸時代
1603年(慶長8年)
釋賢乗が荒町に光善寺を開く。
1613年(慶長18年)
小松藤右衛門が八幡町に法華寺を開く。
このころ
蒲生氏の三春城代により荒町の町割りや、中町の愛宕神社や八幡町の丈六仏堂が勧請・整備される。
加藤氏
1627年(寛永4年)
蒲生秀行の子忠郷が死去し、会津には加藤嘉明が入り、その三男明利が三春3万石、娘婿松下重綱が二本松5万石を拝領する。
松下氏
1628年(寛永5年)
前年、松下重綱が没したため、重綱嫡子長綱が三春に入り、加藤明利は二本松へ移る。
1641年(寛永18年)
幕府から日光山廟塔に収める水晶献上を求められ、その後、将軍死没の度に献上する。
1644年(正保元年)
松下長綱が発狂し、妻の父である土佐藩主山内忠義が長綱を引き取り、領地は幕府へ返上する。
秋田氏
1645年(正保2年)
常陸宍戸藩主秋田俊季が、三春藩5万5千石へ所替えとなる。
1646年(正保3年)
南町を新南町(新町)へ、天満宮(北野神社)を城山から北町へ移す。
1649年(慶安2年)
大坂城在番中に秋田俊季が病死し、嫡子盛季が家督するとともに、5千石を二男季久に分知する。
1659年(万治2年)
盛季が真照寺を三春に移し、古四王堂が落慶する。
1679年(延宝7年)
3代藩主秋田輝季が初めての参勤で領内産7歳の黒鹿毛馬を献上する。その後、参勤の度に献上する。
1682年(天和2年)
越後高田騒動のため、翌年まで高田城に在番する。
1689年(元禄2年)
輝季が神明宮(三春大神宮)を貝山村岩田から馬場へ遷座する。
1783年(天明3年)
浅間山が噴火し、その後凶作が続く。
1785年(天明5年)
八幡町より出火し、城を含め、町の大部分を焼失する。
1798年(寛政10年)
越後高田藩分領浅川(浅川町)で騒動が起こり、出兵する。
1802年(享和2年)
常陸笠間藩分領仁井町村(小野新町)で騒動が起き、出兵する。
1830年(天保元年)
馬屋から出火し中町・大町など類焼。その後、数年凶作が続く。
1864年(元治元年)
水戸天狗党の乱のため、日光山警備に出兵する。
1868年(慶応3年)
徳川慶喜が朝廷に大政を奉還する。
明治時代
1868年(明治元年)
戊辰戦争が起こり、三春藩は西軍に無血開城する。
1871年(明治4年)
7月の廃藩置県により三春藩から三春県へ、11月にが平県、さらに磐前県と統合・改称する。
1874年(明治7年)
御殿・城山の土地と、本丸の表・裏門、長屋、三階櫓といった建物と、敷石、石段、石垣が石材として売却され、城の姿はほぼ失われる。