三春城の歴代城主
永正年間(1504~1521年)に田村義顕(たむらよしあき)により築城されたと伝えられる三春城。田村氏以降は、伊達氏、蒲生氏、加藤氏、松下氏とつづき、秋田氏が幕末まで三春藩主として君臨しました。
戦国時代の田村地方を治めた田村氏は、それ以前に守山(現在の郡山市田村町)を拠点として田村荘を治めた「田村庄司」と区別するために、「三春田村氏」とも呼ばれています。この二つの系統の田村氏の関係は、よくわかっていません。
三春田村氏は、当初は守山にいたといわれ、永正元年(1504)に田村義顕が、三春に城を築いて移ったといわれます。義顕は三春に移ると早い段階で隠居したため、その治世について詳しい事蹟は伝わっていませんが、田村地方全体を統治する基礎を築いた重要な人物です。
義顕の隠居後は、義顕とその正室である岩城常隆の娘との嫡子である隆顕が家督しました。隆顕は、芦名氏や伊達氏といった強大な大名との間で、巧妙な戦略により、田村地方の支配を確実なものにするとともに、安積・岩瀬郡など各地へ積極的に攻め込みました。
そして、隆顕が隠居すると、正室・伊達植宗の娘との嫡男・清顕が家督しました。清顕は、南から新たに現れた佐竹氏を含めて乱立する戦国大名たちの間で、勇猛果敢に戦場を馳せることで、その版図を拡げました。清顕は、正室に相馬顕胤の娘を迎えましたが、男子に恵まれなかったため、一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡子・政宗に嫁がせました。そして、愛姫と政宗の間に男子が生まれれば、それに田村家を継承させるつもりでした。しかし、武力により領地拡大を図る田村氏は、佐竹を中心に安定した社会を築きつつある周囲の大名から疎まれ、孤立した状態の中で清顕が急死しました。
清顕の死後、田村家は婿である伊達政宗の勢力下に入り、清顕の甥にあたる宗顕が三春城主となりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、改易されました。
天正16年(1588)8月、伊達政宗が三春に入城しました。これは、この年の閏5月に清顕夫人の甥である相馬義胤の三春城入城を拒絶し、その後、佐竹・芦名連合軍との郡山合戦に伊達家と共に勝利したことで、田村家中が伊達家に大きく傾いた結果です。
政宗の三春入城を前に、その片腕として活躍した片倉小十郎が三春に入りました。そして、8月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ退出させ、替わって清顕の甥の孫七郎が三春城に入りました。翌4日の晩には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣たちが、城下の屋敷を引き払って、梅雪斎の居城である小野城へ撤退しました。
5日、政宗は宮森城(二本松市岩代町)から馬で三春に入りました。途中まで小十郎が迎えに行き、田村月斎(田村義顕の弟で伊達派の長老)親子や橋本刑部ら田村家重臣たちが、城下の入り口で出迎えました。
そして、政宗が三春城に入ると、田村家の主要な家臣一同に謁見し、その後、東館に出かけました。この東館は、現在の田村大元神社裏の山と考えられ、そこには、小宰相と呼ばれた田村隆顕夫人で、伊達植宗の娘(政宗の大叔母)が暮らしていました。政宗と小宰相は、この時が初対面でしたが、田村家中で唯一の近親者で気が合ったのか、政宗は42日間の滞在中に15回も東館を訪れています。
政宗は三春城滞在中に、田村孫七郎に自分の名の一字を与えて宗顕とし、宗顕を三春城主とする傀儡政権を打ち立てました。さらに、相馬派の家臣を一掃し、先の相馬勢との戦いで相馬方が籠った石沢城(田村市船引町)を破却(城の主要部分を壊すこと)し、三春城の要害(堀や土塁など)の点検なども行っています。三春城跡中腹の東側に残る古い石積みは、この時に整備された可能性もあります。
こうした政宗による一連の田村仕置きの結果、田村地方は実質的に伊達領となり、この前後の外交交渉により、県中地域をほぼ勢力下とし、南奥羽制覇の基礎を固めました。
伊達政宗は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで、戦争により獲得した会津をはじめとする占領地を失いますが、改易された田村家の旧領を一旦は確保することに成功します。
「伊達家家紋使用許可(許可番号6041)」
奥羽仕置きの翌年、宮城県から岩手県を中心に起こった葛西氏や大崎氏の旧臣や、九戸氏らの反乱を鎮圧した豊臣政権は、再度仕置きを行って東北地方の大名領地を再編成します。その結果、旧田村領は会津に入った蒲生氏郷の領地となり、その領内でも最大級の領域である田村地方を治める三春城は、本城である若松城を支える重要な支城となりました。
まず、蒲生氏の姻戚で与力大名(大名家中で客分格の大名)の田丸直昌が城代として三春に入りますが、しばらくすると直昌は守山に支城を移します。その後、氏郷が急死したため、嫡男の秀行が家督しますが、若い秀行には歴戦の武将を数多く抱える蒲生家は治められないと秀吉に判断され、秀行は宇津宮に移され、替わって越後から上杉景勝が会津に入りました。この上杉氏の時代は、守山を支城としたため、三春は使われませんでした。そして、関ヶ原の戦いを経て徳川氏の時代になると、上杉氏は領地を削られ米沢に移り、徳川家康の婿にあたる蒲生秀行が会津に戻されました。田村地方の城代となった蒲生郷成は、最初守山城に入りますが、数年後三春へ戻ってきます。その後、蒲生家中の権力争いのたびに三春の城代は替わり、蒲生姓をいただいた重臣たちが交代で三春城主となりますが、終には1627年に蒲生家は会津を離れます。
このように城代が一定せず、改易により蒲生家の史料も少ないことから、以前は、この時代の三春は廃れていたと考えられていました。しかし、近年の発掘調査などで、三春城本丸周囲の大規模な石垣は、蒲生氏の時代に築かれたことがわかり、城下でも当時人気の茶道具を含む大量の陶磁器や建物や地割の跡が発見されています。また、荒町(当時は新町と書きました)は蒲生氏の城代が新たに計画した町で、光善寺や法華寺、愛宕神社などもこの時代に開山・勧進されたと伝えられ、この時期の三春は廃れるどころか、活発に城下町の建設が進められていたことがわかってきました。
蒲生氏は、伊勢松坂や会津若松をはじめ、たくさんの城下町を建設しており、町づくりを得意とする大名でした。三春も蒲生氏によって、戦国時代の城下町から江戸時代の城下町へとつくり直されたと考えられます。
寛永4年(1627)、蒲生氏郷の孫・忠郷が嫡子のいないまま死去したため、伊予松山に減封される形で上山藩主だった弟の忠知が本家を継ぎ、交代で加藤嘉明が会津藩主になりました。
加藤嘉明は、豊臣秀吉に取り立てられ、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる武将でしたが、徳川家からの信頼も厚く、奥羽の要とされる会津を任せられました。この時、中通りの旧蒲生領が分割され、白河10万石には丹羽長秀、二本松5万石には加藤嘉明の娘婿の松下重綱、三春3万石には嘉明三男の加藤明利が入りました。二本松と三春は、会津に従う与力大名の位置付けですが、江戸にも屋敷を構える独立した大名となりました。明利は、慶長4年(1599)に松山で生まれました。三男でしたが、幼い時から将軍徳川秀忠に仕え、父の会津転封というタイミングもあり、大名に取り立てられました。
しかし、三春藩主としての明利の治世は、1年余りでした。これは同時に二本松藩主となった松下重綱が、入封間もない10月2日に死去し、嫡子の長綱が、奥州街道の要衝二本松城を預かるには幼稚とされたためで、明利が長綱に代わって二本松藩主にされたからです。このため明利は、三春にほとんど足跡を残さずに去ったので、最初の三春藩主である加藤明利の名は、あまり知られていません。
明利はその後、二本松藩主を13年余り務め、寛永18年(1641)3月25日に死去すると、二本松市内の顕法寺に葬られました。この明利の死に不審な点があったことと、生前から続いた本家会津藩でのお家騒動に関連して、寛永20年(1643)に加藤家は本家とともに改易されました。
寛永4年(1627)、加藤嘉明の会津入部に従う形で、嘉明の娘婿である松下重綱が二本松藩主となりました。しかし、その年の10月に重綱が死去すると、嫡男の長綱は翌年正月に加藤明利と交代で三春藩主になり、寛永21年(1644)に改易されるまで、三春を治めました。
松下重綱の父之綱は、静岡県の頭陀寺城主で、幼い豊臣秀吉が最初に仕えた武将として有名です。今川氏から徳川氏、後には大成した秀吉に仕え、久野城(静岡県袋井市)を与えられました。之綱の没後、嫡男の重綱が家督して、久野から常陸小張(茨城県つくばみらい市)、下野烏山(栃木県烏山市)の城主となり、加藤嘉明の娘を正室に迎えた縁で、二本松へと移りました。長綱が三春に移ると、父重綱の菩提を弔うために新町に州伝寺を建立し、亀井に光岩寺を建てて母加藤氏の念持仏といわれる阿弥陀如来像を祀り、その死後は、菩提寺としました。
この時代の三春城は、山上の本丸に藩主が暮らし、中腹各所の平場に重臣たちの屋敷が立つ、山城の状態でした。しかし、これまでと違って大名の居城となったため、本丸には瓦葺の櫓をはじめ、大型の建物が建築され、城下には多くの家臣が暮らすための武家屋敷や、その生活を支えるための町人が暮らし、ほぼ現在のような町ができあがりました。
松下長綱については、記録が少なく、詳しくはわかりません。幕府の記録では、三春に移された理由が「幼稚たれば」、改易された理由が「発狂しければ」とあり、幕府の仕事もほとんど任せられていません。長綱が改易される前年、会津の加藤氏が改易され、同様の関係である二本松の加藤氏も改易されますが、松下氏は改易されませんでした。しかし、翌年、妻の父である土佐藩主山内忠義が、長綱が発狂したので領地を幕府に返したいと願い出、それが許可されて改易となります。キリシタンであったという説もありますが、病弱であったのは確かだと思われます。
秋田氏は、神話の時代に畿内で神武天皇に敗れた長髄彦(ながすねひこ)の子孫とも、古代末期に奥六郡(岩手県)を支配した安倍貞任の子孫ともいいます。確実なのは、鎌倉時代に津軽十三湊(青森県五所川原市)を拠点に、アイヌや中国と交易し、日の本将軍とも呼ばれた安東(安藤)氏の時代からです。また、その分家が秋田湊(秋田市)を拠点に日本海沿岸の貿易で栄えますが、室町時代になると本家は南部氏に追われて北海道へ逃れ、その後、一族の下国家が北海道から出羽檜山(能代市)に拠点を移しました。そして、下国家の舜季と湊家の嶺松院との間に生まれた愛季が安東家を統一し、織田信長とも誼を通じて、侍従に任じられました。
しかし、愛季が急死し、幼い実季が家督すると家中が乱れ、湊合戦を経て家中がまとまる頃には、既に豊臣秀吉の世となっていました。当初、湊合戦は秀吉の惣無事違反とされましたが、実季の外交努力が実り、実季は奥羽仕置きで出羽5万石と太閤蔵入地となった旧領の管理を一任されました。このため、実季は豊臣政権の忠実な大名として、肥前名護屋へ出陣するとともに、大量の秋田杉を供出することで、秋田の地場産業も育てました。そして、関ヶ原の合戦では、徳川方として行動しますが、家康には認められず、先祖代々暮らした北の大地から離され、常陸宍戸(茨城県笠間市)へ移されます。大坂の陣以降は、幕府の仕事を嫡男の俊季に任せ、宍戸に籠っていた実季は、伊勢朝熊での蟄居を命じられます。代わって宍戸を与えられた俊季は、松下氏の改易で城主がいなかった三春に、正保2年(1645)に5万5千石で移され、明治維新まで11代続きました。
さて、秋田氏は安倍を本姓とし、中世は安東(安藤)を名乗りました。秋田を名乗るようになったのは、古代以来、出羽国の現地駐留長官の官職である「秋田城介」の官位を、実季が欲したためといわれます。しかし、任官運動中に宍戸に移されたため、一時は長髄彦の本拠とされる伊駒(生駒)を名乗りますが、1611年にようやく秋田城介に任じられました。以来、秋田を代々名乗り、主要な家臣にも秋田姓と季の諱を与えました。このため、三春藩の重臣には秋田姓が多いのです。
また、秋田家の家紋は、先祖が天皇から鷲の羽を檜扇に載せた状態で頂いたことに因む「檜扇に違い鷲羽(秋田扇)」紋と、百獣の王と百花の王を並べた「牡丹唐獅子(秋田牡丹)」紋が代表的なものです。